前回の記事で、私は「好き」と「集めたい」がズレていく構造について書きました。
その中で、ひとつ浮かび上がった言葉があります。
“好きである証明”。
私はかつて、その証明をしようとしていました。
でも、なぜ証明が必要だったのでしょうか。
好きという感情は、本来もっと自由なはずなのに。
好きに“証明”は本来いらない
本来、好きは内側の感情です。
胸が高鳴る。
思い出すだけで嬉しい。
誰に見せなくても、自分の中で完結する。
それだけで十分なはずです。
なのに私たちは、ときどきそれを外に見せたくなる。
グッズを並べる。
イベントに参加する。
SNSに投稿する。
「私はちゃんと好きです」と、どこかで言いたくなる。
なぜでしょうか。
証明したくなる心理
① 承認欲求
人は、認められたい生き物です。
「そんなに好きなんだね」
「すごいね」
「愛が深いね」
そう言われることで、自分の感情に確信を持てる。
好きが、強化される。
だから、証明したくなる。
② 所属欲求
ファンダムは、ひとつのコミュニティです。
同じ推しを好きな人たちとつながる。
語り合う。
共感し合う。
その中で「私はここにいる」と感じたい。
証明は、コミュニティへの参加証のような役割を持つこともあります。
推し活がしんどくなるとき、その背景にはこうした承認欲求や所属欲求が隠れていることがあります。
③ 不安の打ち消し
SNSを見るたびに、他の人の熱量やグッズ量と比べてしまい、推し活に疲れてしまう人も少なくありません。
もしかしたら、これが一番繊細な理由かもしれません。
「最近ちょっと熱量が落ちているかも」
「前ほど追えていないかも」
そんな不安がよぎるとき、
グッズを買う。
イベントに行く。
たくさん発信する。
それは、「私はまだ好きだ」と自分に言い聞かせる行為でもあります。
証明は、ときに不安の裏返しです。
私も、似たことをしていました。
グッズを買うたびに、その日に手に入れたものを全部並べて、「今日の戦利品!」と言いながら写真を撮る。
そして、フォロワーは多くないのに、SNSに投稿する。
今思えば、フォロワーさんはただ同じジャンルでつながった人たちだったのに、
私はどこかで、その人たちに“証明”を押しつけていたのかもしれません。
こんなに買いました。
こんなに好きです。
ちゃんと追いかけています。
本当は、誰かに自慢したかったというより、
「私はまだ大丈夫」と自分に言い聞かせたかっただけだったのかもしれません。
証明していたつもりで、本当は安心を探していたのだと思います。
内発的な「好き」と、外発的な「証明」
好きには、大きく分けて二つの動機があります。
ひとつは、内側から自然に湧いてくる感情。
もうひとつは、外側から刺激されて動く動機。
心理学ではこれを、
- 内発的動機
- 外発的動機
と呼びます。
内発的動機
「ただ好きだから」
理由はいらない。
誰に見せなくても成立する。
報酬も評価も必要ない。
これは、とても静かな好きです。
揺れにくく、でも目立たない。
外発的動機
「認められたいから」
「所属していたいから」
「不安を消したいから」
評価。
比較。
報酬。
安心。
外から与えられる何かによって強化される好き。
証明欲は、この外発的動機に近いものです。
内発的な好きは、静かで揺れにくい。
外発的な好きは、強く燃えるけれど、疲れやすい。
問題は、外発的動機が悪いことではありません。
問題は、それが内発的な“好き”を上書きしてしまうことです。
いつの間にか、「好きだからする」ではなく、「しないと不安だからする」に変わってしまう。
量は測れる。
いいねは数えられる。
購入履歴も確認できる。
数字は、安心をくれます。
だから私たちは、いつの間にか、「量」で好きの価値を確かめようとしてしまう。
でも、内発的な好きは測れない。
だから不安になる。
だから、測れるものに頼りたくなる。
こうして、
「量=安心」
「量=愛の深さ」
という錯覚が生まれていきます。
SNSが証明欲を加速させる
証明欲は、SNSによって可視化されます。
グッズ写真。
祭壇文化。
開封動画。
購入報告。
“量”が目に見える形で並びます。
でも、悪いのはSNSではありません。
可視化される構造が、私たちの比較本能を刺激しているだけです。
見えるものは、どうしても比べやすい。
そして比べるたびに、「私は足りているだろうか」という問いが生まれる。
その不安が、また証明へと私たちを向かわせます。
証明しなくても、好きは消えない
でも、本当にそうでしょうか。
見せなくても、好き。
所有していなくても、好き。
参加していなくても、好き。
それは、十分に本物です。
好きは、外から測るものではなく、内側で感じるものだから。
証明しなくても、感情そのものが消えるわけではありません。
証明欲から少し距離を置くための、3つの視点
証明欲を完全になくす必要はありません。
人は、認められたいし、つながっていたいし、不安を打ち消したくなる生き物です。
でも、少しだけ距離を置く視点を持てると、好きはずいぶん軽くなります。
① 好きは“行動量”では測れない
たくさん買っているから好き。
イベントに全部参加しているから好き。
毎日発信しているから好き。
本当にそうでしょうか。
量は目に見えるから、安心しやすい。
数字は比較できるから、分かりやすい。
でも、好きは本来、数字にならない感情です。
静かに続いている気持ちも、昔より頻度が減った想いも、ちゃんと「好き」です。
行動量は、好きの証明にはなっても、好きの本質ではありません。
② 比較したくなったら、いったんSNSを閉じる
SNSは、悪者ではありません。
でも、見える世界はどうしても“強いもの”が目に入ります。
大量のグッズ。
完璧に整えられた祭壇。
熱量あふれる投稿。
それを見るたびに、「私は足りているだろうか」という問いが生まれる。
もし比較で疲れていると感じたら、いったん画面を閉じてみる。
それだけでも、証明しなければという衝動は少し弱まります。
好きは、本来ひとりでも成立するものだから。
③ 推しと自分の関係は、他人と競うものではない
推しとの関係は、本来とても個人的なものです。
でもファンダムの中にいると、どうしても“熱量”が並びます。
あの人はこれだけ買っている。
あの人はこんなに詳しい。
あの人は毎回現場に行っている。
気づけば、好きが競争のようになってしまう。
でも、推しとあなたの関係は、誰とも比べられないはずです。
それは順位のつくものではなく、契約でもなく、勝ち負けでもない。
ただの、感情です。
証明欲が湧いてくること自体は、悪いことではありません。
でもその衝動に気づけたとき、あなたはもう、少し自由です。
好きは、競わなくても、見せなくても、続いていくものだから。
そして私は、ようやくそのことに気づきました。
証明に必死だったあの頃の私へ
この記事を書いていて、ひとつ思ったことがあります。
あの頃の私は、とにかく「好きである証明」に必死でした。
新しいグッズを追いかけて、限定を逃さないようにして、誰よりも“ちゃんと好き”でいようとしていました。
でも今、推し活を卒業して、少し距離を置いた場所から過去の自分を見ると、こうも思います。
上には上がいる。
もっとお金を使える人も、もっと熱量を注げる人も、もっと詳しい人も、いくらでもいる。
そんな人たちと、どこかで張り合おうとしていた自分は、少し未熟だったのかもしれません。
でも同時に、それは若さだったとも思うのです。
必死で、全力で、少し空回りしながらも、「好き」を守ろうとしていた時間。
あの苦しさも、あの焦りも、人生の一部だった。
もし今、証明に疲れている人がいるなら…
その時間もきっと、寄り道のようでいて、無駄ではない。
好きと向き合う過程そのものが、あなたの物語になっていくのだと思います。

おわりに
推し活がしんどいと感じるとき。
それは好きが弱くなったからではないのかもしれません。
好きは、証明しなくても本物です。
そして、証明しなくていいとき、好きは一番自由になります。
もし今、誰かに見せるための好きに疲れているなら…
少しだけ、自分の内側に戻ってみてください。
好きは、本来もっと静かで、もっと軽いものだったはずだから。
そしてその静けさは、今もきっと、あなたの中にあります。

